2020年03月13日

見えないものとの闘い

見えない「ウイルス」との闘いで、公民館やカルチャーセンターの三線教室が軒並みお休みとなっている。

会社を昨年退職し、三線教室と飲食ゆがふ家で生計をたてている、いわゆるフリーランスの生活にはとても厳しい。

それでも三線のお稽古は継続したい、という方も多いので、ゆがふ家の三線教室は普段通りに開講している。「しまうた酒菜 ゆがふ家」も営業をしている。

けれども収入は半減だ。

昨日は知り合いたちがゆがふ家に集まってくれた。常連さんもよく来てくださる。

見えないものとの闘い

子どもさんを持つ親達はとても大変だろう。大混乱の様子も伝えられる。そして政府の支援策も出たが、フリーランスへの支援は融資、つまり借金で乗り切れ、という。これではフリーランスは淘汰されていくしかない。

余った時間は調べ物に費やそうと思う。

見えないものとの闘い

以前沖縄で購入したレコード。シングルレコードやEPと呼ばれるもの。マルフクレコードとかビクターのレーベルがある。

それをパソコンに取り込んで行って歌詞を調べている。

見えないものとの闘い

オール150円だったから、大変貴重で安価な掘り出し物だ。その中に元ハンセン病の方々が暮らしている沖縄愛楽園で知り合った前田義全さんが歌詞を書かれたウタがあった。

「茅打ちバンタ」。

見えないものとの闘い

2015年、初めて沖縄愛楽園を訪れた時に前田義全さんとお会いした。

ハンセン病の患者たちは病状の見た目から昔から激しい差別にさらされた。国も差別を放置した。患者たちは理解のある医師や人々とともに闘ってきた。今日ではハンセン病は治癒したが帰るところもない方々が愛楽園に暮らしておられる。

愛楽園のある屋我地島はとても美しい島で、私も虜になってしまった。昔からウタの島でもある。

愛楽園で琉歌を作り三線で歌って来られた方の一人前田義全さんから琉歌に込めた思い、そもそも琉歌はなぜ沖縄の人々の心を守り育てたのか、泡盛を飲みながら義全さんのご自宅でお聞きしたのだった。

見えないものとの闘い

義全さんが作られた琉歌を集めた琉歌集。義全さんは昨年亡くなられた。

義全さんが語られたのはー
私のブログから。

「沖縄のウタは泥の中から生まれた。良い暮らしの中から生まれたものではない。皆苦労して生まれてきたウタ。だから、どんなに打たれてもひどいことをされても人を恨むことはない。人を助けるのが沖縄のウタなんだ」

ハンセン病を誤解し差別を広げてきた国のやり方の中で、患者の皆さんは想像もつかない苦しみを味わいました。その中で義全たちが大切にしてきたのは「人を助ける」「人を讃える」ウタ、琉歌を作り歌うことでした。

「確かにウタには裏も表もある。しかし金儲けや人気とりや、人を蔑むためのものじゃない。そんな悪い心を持ってウタを歌うものじゃない」


茅打ちバンタを聴きながら義全さんの言葉の重さを感じる。

私達は「今見えないウイルスとの闘い」と書いたが、義全さんたちハンセン病だった方々の闘いとは比べものにならない。

マスクの買い占めや転売、デマの拡散、そんな人々の生き様を見ていると義全さんたちは笑っているかもしれない。

こんな中でウタがどんな役割を果たすのだろう。
時間も少しできたからゆっくり考えたい。

義全さんがご健在ならばもう一度お会いしたいものだ。


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