2017年06月27日
「上り口説」の道 5 「最終回 薩摩まで」
先日の私たちの短いうちなー旅で巡った道は、観音堂から崇元寺、美栄橋、三重城に至る、2時間ほどのわずかな行程でした。そして私たちは無事那覇空港からの帰途につくことができました。福岡空港経由、広島まで新幹線ですから4時間ほどで帰宅しました。
しかし、18世紀頃の琉球使節は2000キロに及ぶ江戸への旅をしたのですから、これからが大変な旅なのです。
「上り口説」の残りの七番、八番を見ていきます。
七、伊平屋渡立つ波押し添へて
道の島々見渡せば 七島渡中も灘安く
私の拙ブログ「たるーの島唄まじめな研究」では必ず歌詞の読み方を書いています。発音記号とひらがなで。
この歌詞は
いひゃどぅー たつなみ うしすいてぃ
みちぬしまじま みわたしば しちとーとぅなかん なだやしく
と読みます。上り口説の中でも読み方が難しい部分です。
「とー」と「とぅ」の区別のあたりはよく混乱するところです。大和口も混ざっています。
意味は
伊平屋島の沖に立つ波は船を押し添えて 奄美の島々を見渡せば トカラ列島の航行中も灘は平穏だ

(「沖縄県史ビジュアル版8」を参考に筆者作成)
鹿児島から船で奄美や沖縄まで行かれたことのある方なら、天気が崩れると外洋での波の高さが半端ないことはご存知だろうと思います。
伊平屋島の沖の波が高くて航海も難しいところを「押し添いてぃ」としています。
「沖縄古語大辞典」を紐解いてみると「うしすいゆん」は「押して添える」とあります。
つまり高い波すらも船を押す力になっていると。穏やかでない海の波すらも航海を手助けしている、ということになります。
「七島渡中も」はトカラ列島の沖合いを意味しますが、ここも「穏やか」だと歌います。
実際には航海の難所でもあったのです。この時期は台風も多くやって来ることがあります。しかしそれでも安全な航海を願う気持ちが歌詞にもその願いを込めているわけです。
言霊(ことだま)を信じ、そこから生まれた「かりゆし」という航海の無事を祈る呪文と並んで沖縄の精神文化をよく表しています。
八番では
八、燃ゆる煙や硫黄が島 佐多の岬に走い並で(エーイ) あれに見ゆるは御開聞 富士に見まがふ桜島
意味は
燃える煙は硫黄が島だ 佐多の岬を併走してそこに見えるのは御開聞岳 富士に見間違えるほどの桜島
となります。
細かい事を言えば「富士に見まごう」のは桜島というより開聞岳のほうです。「薩摩富士」との異名もあるほどです。しかし、薩摩の象徴「桜島」を「富士山」に似ていると讃えるのは、琉球王朝の薩摩藩への配慮なのでしょうか。
「上り口説」は屋嘉比朝寄(1716-1775)の作品だと言われています。明確な証拠を私は未だに見た事はありませんが、屋嘉比朝寄は若い頃薩摩藩に派遣され日本の謡曲や仕舞を学び、琉球に戻ってからは琉球古典を学び、工工四を中国音楽の楽譜に習って発明します。
当時日本全国で流行していた口説(くどき)を使って琉球から薩摩への旅を描く、まさに屋嘉比朝寄以外の作者は考えられないともいえます。
「上り口説」は江戸上りの歌とされていますが、薩摩までの道程で終わるのは、「薩摩藩向け」という理由だけでなく、首里から中の橋までの行程を詳しく描くことで「命をかけた使節」という印象もきちんと残したかったという意図があるように思います。
ここまでで今回の私の短い旅と重ね合わせた「上り口説」の解説は終わります。
しかしいくつかの疑問点も残ります。
前回「出航」で見た琉球使節の船団の絵です。

(「沖縄県史ビジュアル版9」 『薩摩から船出する琉球使節(鹿児島市立美術館蔵)』)
どうやら薩摩に着いた使節は薩摩の船に乗り換えたように見えます。
この辺りはまた調べてみたいとことろです。
さて、最後に琉球使節の江戸までの行程を紹介しておきます。
Wikipediaにまとめられているので引用します。
『六月ごろ季節風に乗り琉球を出発、薩摩山川港に至る。琉球館にてしばらく滞在し、九月ごろ薩摩を出発、長崎を経て下関より船で瀬戸内海を抜けて大阪に上陸。京都を経て東海道を東へ下り江戸に着くのは十一月ごろである。1~2ヶ月ほど滞在し、年が明けてから江戸を出発、大阪までは陸路、その後海路にて薩摩を経由し琉球へ戻る。ほぼ一年掛かりの旅であった。』
(「江戸上り」Wikipediaより)
しかし、18世紀頃の琉球使節は2000キロに及ぶ江戸への旅をしたのですから、これからが大変な旅なのです。
「上り口説」の残りの七番、八番を見ていきます。
七、伊平屋渡立つ波押し添へて
道の島々見渡せば 七島渡中も灘安く
私の拙ブログ「たるーの島唄まじめな研究」では必ず歌詞の読み方を書いています。発音記号とひらがなで。
この歌詞は
いひゃどぅー たつなみ うしすいてぃ
みちぬしまじま みわたしば しちとーとぅなかん なだやしく
と読みます。上り口説の中でも読み方が難しい部分です。
「とー」と「とぅ」の区別のあたりはよく混乱するところです。大和口も混ざっています。
意味は
伊平屋島の沖に立つ波は船を押し添えて 奄美の島々を見渡せば トカラ列島の航行中も灘は平穏だ

(「沖縄県史ビジュアル版8」を参考に筆者作成)
鹿児島から船で奄美や沖縄まで行かれたことのある方なら、天気が崩れると外洋での波の高さが半端ないことはご存知だろうと思います。
伊平屋島の沖の波が高くて航海も難しいところを「押し添いてぃ」としています。
「沖縄古語大辞典」を紐解いてみると「うしすいゆん」は「押して添える」とあります。
つまり高い波すらも船を押す力になっていると。穏やかでない海の波すらも航海を手助けしている、ということになります。
「七島渡中も」はトカラ列島の沖合いを意味しますが、ここも「穏やか」だと歌います。
実際には航海の難所でもあったのです。この時期は台風も多くやって来ることがあります。しかしそれでも安全な航海を願う気持ちが歌詞にもその願いを込めているわけです。
言霊(ことだま)を信じ、そこから生まれた「かりゆし」という航海の無事を祈る呪文と並んで沖縄の精神文化をよく表しています。
八番では
八、燃ゆる煙や硫黄が島 佐多の岬に走い並で(エーイ) あれに見ゆるは御開聞 富士に見まがふ桜島
意味は
燃える煙は硫黄が島だ 佐多の岬を併走してそこに見えるのは御開聞岳 富士に見間違えるほどの桜島
となります。
細かい事を言えば「富士に見まごう」のは桜島というより開聞岳のほうです。「薩摩富士」との異名もあるほどです。しかし、薩摩の象徴「桜島」を「富士山」に似ていると讃えるのは、琉球王朝の薩摩藩への配慮なのでしょうか。
「上り口説」は屋嘉比朝寄(1716-1775)の作品だと言われています。明確な証拠を私は未だに見た事はありませんが、屋嘉比朝寄は若い頃薩摩藩に派遣され日本の謡曲や仕舞を学び、琉球に戻ってからは琉球古典を学び、工工四を中国音楽の楽譜に習って発明します。
当時日本全国で流行していた口説(くどき)を使って琉球から薩摩への旅を描く、まさに屋嘉比朝寄以外の作者は考えられないともいえます。
「上り口説」は江戸上りの歌とされていますが、薩摩までの道程で終わるのは、「薩摩藩向け」という理由だけでなく、首里から中の橋までの行程を詳しく描くことで「命をかけた使節」という印象もきちんと残したかったという意図があるように思います。
ここまでで今回の私の短い旅と重ね合わせた「上り口説」の解説は終わります。
しかしいくつかの疑問点も残ります。
前回「出航」で見た琉球使節の船団の絵です。

(「沖縄県史ビジュアル版9」 『薩摩から船出する琉球使節(鹿児島市立美術館蔵)』)
どうやら薩摩に着いた使節は薩摩の船に乗り換えたように見えます。
この辺りはまた調べてみたいとことろです。
さて、最後に琉球使節の江戸までの行程を紹介しておきます。
Wikipediaにまとめられているので引用します。
『六月ごろ季節風に乗り琉球を出発、薩摩山川港に至る。琉球館にてしばらく滞在し、九月ごろ薩摩を出発、長崎を経て下関より船で瀬戸内海を抜けて大阪に上陸。京都を経て東海道を東へ下り江戸に着くのは十一月ごろである。1~2ヶ月ほど滞在し、年が明けてから江戸を出発、大阪までは陸路、その後海路にて薩摩を経由し琉球へ戻る。ほぼ一年掛かりの旅であった。』
(「江戸上り」Wikipediaより)
Posted by たるー2 at 07:57│Comments(0)
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