2024年05月11日
ゴールデンウィーク2024 (続き)
4月28日の横川ふしぎ市への参加、フラワーフェスティバルへの参加から、最終日の5月6日は福山市へ。
琉呉太鼓の皆さんやタキ先生とフラダンスの皆さんとのコラボを楽しみに早朝に出発。
リハーサルを終えて、いざ本番。
琉呉太鼓さんのホームページから昨日の福山音楽祭の動画です。
https://youtu.be/4_HWdlVF4w0?si=fe_Df_A3Ckx1fxT9
琉呉太鼓の皆さんとYOU果報バンド。
フラのタキ先生と。
疲れを感じないくらい、皆さんとのコラボが楽しいコンサートでした。
5月12日は水辺のコンサートへの出演予定でした。
しかし天候は「雨」。
コンサートは中止となりそうです(決定は明日8時)。
初めて「関 洋民謡研究所」として出演予定でした。
6月23日は、慰霊の日ですが、水辺のコンサートに出演します。世果報会として。
こちらにおいでください。
琉呉太鼓の皆さんやタキ先生とフラダンスの皆さんとのコラボを楽しみに早朝に出発。
リハーサルを終えて、いざ本番。
琉呉太鼓さんのホームページから昨日の福山音楽祭の動画です。
https://youtu.be/4_HWdlVF4w0?si=fe_Df_A3Ckx1fxT9
琉呉太鼓の皆さんとYOU果報バンド。
フラのタキ先生と。
疲れを感じないくらい、皆さんとのコラボが楽しいコンサートでした。
5月12日は水辺のコンサートへの出演予定でした。
しかし天候は「雨」。
コンサートは中止となりそうです(決定は明日8時)。
初めて「関 洋民謡研究所」として出演予定でした。
6月23日は、慰霊の日ですが、水辺のコンサートに出演します。世果報会として。
こちらにおいでください。
2024年05月11日
ゴールデンウィーク2024
ゴールデンウィークも終わった。
パンデミックの終了を意味するコロナの五類移行から1年経ち、イベントが昨年以上に行われている。
4月28日の横川ふしぎ市。
横川三線教室や有志が参加。
二葉エイサー会の皆さんとのコラボも。
5月3日からは広島フラワーフェスティバル。
前日はゴーヤーなどの仕込み。
3日間、沖縄県人会ブースは泡盛、オリオンビール、沖縄そば、ゴーヤーチャンプルー、ポーク卵、サータアンダギーなどを販売。
かつてないほどのお客様で賑わった。
ゴールデンウィークの最終日は福山へ。
(続く)
パンデミックの終了を意味するコロナの五類移行から1年経ち、イベントが昨年以上に行われている。
4月28日の横川ふしぎ市。
横川三線教室や有志が参加。
二葉エイサー会の皆さんとのコラボも。
5月3日からは広島フラワーフェスティバル。
前日はゴーヤーなどの仕込み。
3日間、沖縄県人会ブースは泡盛、オリオンビール、沖縄そば、ゴーヤーチャンプルー、ポーク卵、サータアンダギーなどを販売。
かつてないほどのお客様で賑わった。
ゴールデンウィークの最終日は福山へ。
(続く)
2024年05月07日
夜半参り
年や馬ぬ走い、と言うがもう4月も終わり、5月となった。
以前の「ヨーテー節と湧川ヨーテー節」の記事に書いたのだが、2月に今帰仁村に滞在した折に、以前屋我地島で「ヨーテー節交流会」を開かれた玉城健雄さんと、湧川で区長なども経験された嘉陽崇さんのお二人から「ヨーテー節」の歌詞などの資料を頂いた。
今帰仁村の隣である屋我地島や、今帰仁村の南側で屋我地島と交流があった湧川には、ヨーテー節が盛んだったのだ。もちろん湧川には今帰仁ミャークニーもあったから、共通する歌詞ももちろんある。
気になったのはこの歌詞。
どちらにもこの琉歌が出てくる。
遊びする屋我地 恋路する湧川
夜半参ぬ立ちゅる天底門口
モーアシビに加わった屋我地 恋しい人と歩いた湧川。そして夜半参が立っている天底の門口。
屋我地島(名護村)と湧川(今帰仁村)は経済でも遊びでも結びつきが強かった。
「夜半参り」が行われていたの今帰仁村の天底(あみすく、と普通読むが「あみす」と読むこともある)だという。
私の滞在した宿が天底にあった事もあり、夜半参(女性が命を掛けて夜中に願を立てに男装してお参りすること)をした天底門口を探してみた。
朝の散歩では近くのそれらしい場所を徘徊した。
門口とは「入り口」の事であるが、もしかしたらここだったのかもしれないと想像した場所がこの「天底毘沙門大主」と言う場所だった。
夜半参とはどのようなものだったか。
明治期に作られた歌劇がある。
ある資料によれば、それは中国の冊封使を歓待するための御冠船踊りに出演した踊り手に恋をした女が男装して拝所などでお百度参りのようなことをしたことが始まりだという。
地方にはモーアシビがあり男女の出会いがあったが、首里、那覇などではそのような野遊びがなく、夜半参りをすることで出会うことが生まれた、と。
今思い出したのは八重山民謡の「月ぬまぴろーま節」だった。
月に願いを掛けて夜半参りをする女性の気持ちをうたったものだ。
たるーの島唄まじめな研究
https://taru.ti-da.net/e2065758.html
そして曲はこのYouTubeに。
https://youtu.be/gldnbZdVIig?si=hN1XhO0SPp0Hrbkk
もう時代が遥かに昔のこととなり、どこで、どのような夜半参りが行われたのか、知る由もない。
想像するだけでも、今帰仁ミャークニーやヨーテー節をより理解することになるだろう、という少し投げやりな気持ちかもしれない。
以前の「ヨーテー節と湧川ヨーテー節」の記事に書いたのだが、2月に今帰仁村に滞在した折に、以前屋我地島で「ヨーテー節交流会」を開かれた玉城健雄さんと、湧川で区長なども経験された嘉陽崇さんのお二人から「ヨーテー節」の歌詞などの資料を頂いた。
今帰仁村の隣である屋我地島や、今帰仁村の南側で屋我地島と交流があった湧川には、ヨーテー節が盛んだったのだ。もちろん湧川には今帰仁ミャークニーもあったから、共通する歌詞ももちろんある。
気になったのはこの歌詞。
どちらにもこの琉歌が出てくる。
遊びする屋我地 恋路する湧川
夜半参ぬ立ちゅる天底門口
モーアシビに加わった屋我地 恋しい人と歩いた湧川。そして夜半参が立っている天底の門口。
屋我地島(名護村)と湧川(今帰仁村)は経済でも遊びでも結びつきが強かった。
「夜半参り」が行われていたの今帰仁村の天底(あみすく、と普通読むが「あみす」と読むこともある)だという。
私の滞在した宿が天底にあった事もあり、夜半参(女性が命を掛けて夜中に願を立てに男装してお参りすること)をした天底門口を探してみた。
朝の散歩では近くのそれらしい場所を徘徊した。
門口とは「入り口」の事であるが、もしかしたらここだったのかもしれないと想像した場所がこの「天底毘沙門大主」と言う場所だった。
夜半参とはどのようなものだったか。
明治期に作られた歌劇がある。
ある資料によれば、それは中国の冊封使を歓待するための御冠船踊りに出演した踊り手に恋をした女が男装して拝所などでお百度参りのようなことをしたことが始まりだという。
地方にはモーアシビがあり男女の出会いがあったが、首里、那覇などではそのような野遊びがなく、夜半参りをすることで出会うことが生まれた、と。
今思い出したのは八重山民謡の「月ぬまぴろーま節」だった。
月に願いを掛けて夜半参りをする女性の気持ちをうたったものだ。
たるーの島唄まじめな研究
https://taru.ti-da.net/e2065758.html
そして曲はこのYouTubeに。
https://youtu.be/gldnbZdVIig?si=hN1XhO0SPp0Hrbkk
もう時代が遥かに昔のこととなり、どこで、どのような夜半参りが行われたのか、知る由もない。
想像するだけでも、今帰仁ミャークニーやヨーテー節をより理解することになるだろう、という少し投げやりな気持ちかもしれない。
2024年04月18日
16年ぶりの今帰仁ミャークニー大会
3月18日に開かれた「今帰仁ミャークニー大会実行委員会」では、8月31日、9月1日に開催予定の「今帰仁村祭」の中で、8月31日の17時から希望すると決まったことが伝わってきた。
会議の議事録が後で作られたので、そのことを最近文書で知った。
8月31日に今帰仁ミャークニー大会が開催されることになったわけだ。
最後に行われた大会は2006年だから、実に18年ぶりの開催ということになる。
2006年の演目を見てみると、参加者の年齢層の幅が広がったこと。13歳から92歳までの幅がある。
そして今帰仁以外や他府県からの参加も増えている。
さらに二揚ミャークニーが影を潜めてしまったことである。これはとても残念だ。
本部ミャークニー、あるいは中南部のナークニーに今帰仁の情景を乗せて唄うことはとても意義深いものであるが、二揚が少なくなる、または消滅するというのは望むことではない。
一方で酒井正子さんの講演では、今帰仁ミャークニーの特徴と、生活との深い結びつきが具体例と共に示されたことである。
研究は深化したが、実際には生活から離れてしまっていく今帰仁ミャークニーの皮肉な実態も、私たちは目の当たりにするのである。
記録に残る最初の大会。
1982年(昭和57年)だ。
村民は「今帰仁ミャークニーを残しておかなければいずれ消滅してしまう」という危機感があった。
▲その2年後、1984年の大会パンフレット。
そして、しばらく大会は開かれない。
「また大会を開いてほしい」という村民の声に2001年からまたしばらく大会が開かれていく。
そして最後に2006年の大会が開催されるのである。
大会に表れた今帰仁ミャークニーの変化は、今帰仁の字毎にあった独特のミャークニーや二揚ミャークニーが消えていっている、ということを如実に表していた。
それから16年経って開かれる今年の8月31日の大会は果たしてどのような様相になるのだろうか。
私は参加者の一人として、しっかりと見つめたいと思う。
会議の議事録が後で作られたので、そのことを最近文書で知った。
8月31日に今帰仁ミャークニー大会が開催されることになったわけだ。
最後に行われた大会は2006年だから、実に18年ぶりの開催ということになる。
2006年の演目を見てみると、参加者の年齢層の幅が広がったこと。13歳から92歳までの幅がある。
そして今帰仁以外や他府県からの参加も増えている。
さらに二揚ミャークニーが影を潜めてしまったことである。これはとても残念だ。
本部ミャークニー、あるいは中南部のナークニーに今帰仁の情景を乗せて唄うことはとても意義深いものであるが、二揚が少なくなる、または消滅するというのは望むことではない。
一方で酒井正子さんの講演では、今帰仁ミャークニーの特徴と、生活との深い結びつきが具体例と共に示されたことである。
研究は深化したが、実際には生活から離れてしまっていく今帰仁ミャークニーの皮肉な実態も、私たちは目の当たりにするのである。
記録に残る最初の大会。
1982年(昭和57年)だ。
村民は「今帰仁ミャークニーを残しておかなければいずれ消滅してしまう」という危機感があった。
▲その2年後、1984年の大会パンフレット。
そして、しばらく大会は開かれない。
「また大会を開いてほしい」という村民の声に2001年からまたしばらく大会が開かれていく。
そして最後に2006年の大会が開催されるのである。
大会に表れた今帰仁ミャークニーの変化は、今帰仁の字毎にあった独特のミャークニーや二揚ミャークニーが消えていっている、ということを如実に表していた。
それから16年経って開かれる今年の8月31日の大会は果たしてどのような様相になるのだろうか。
私は参加者の一人として、しっかりと見つめたいと思う。
2024年04月15日
LOVE & PEACE HIROSHIMA
世界は紛争が治らず拡大する空気が強くなっている。
そんな中で日本は2023年度から5年間の防衛費を総額43兆円とする計画を進めている。ミサイル防衛だとか「先制攻撃」などがまことしやかに語られるあり方は、ついこの前の戦争でアジアの国々に侵略し、沖縄を捨て石にし、戦争を長引かせえ広島、長崎への原爆をももたらした施策への反省が貫かれているだろうか。
さて、昨日はLOVE & PEACE HIROSHIMAと銘打って150名ほどの音楽関係者が集まり、演奏、演舞で平和を伝えた。
私たち世果報会も、琉呉太鼓さんとコラボを含めてトリを務めさせて頂いた。
そんな中で日本は2023年度から5年間の防衛費を総額43兆円とする計画を進めている。ミサイル防衛だとか「先制攻撃」などがまことしやかに語られるあり方は、ついこの前の戦争でアジアの国々に侵略し、沖縄を捨て石にし、戦争を長引かせえ広島、長崎への原爆をももたらした施策への反省が貫かれているだろうか。
さて、昨日はLOVE & PEACE HIROSHIMAと銘打って150名ほどの音楽関係者が集まり、演奏、演舞で平和を伝えた。
私たち世果報会も、琉呉太鼓さんとコラボを含めてトリを務めさせて頂いた。
2024年04月08日
今帰仁ミャークニーの魅力 その③ 二揚ミャークニー
魅力その③ 二揚ミャークニー
一言で言えば
今帰仁だけの音色、二揚ミャークニーだ。
宮里政正さん(85)の二揚ミャークニー。
越地という字はここにある。
渡海に舟浮きて風待ちゅる夜や
無蔵が我ん待ゅし あねがあたら
(歌意)海に舟を浮かべて風を待つ夜は
愛する貴女が私を待つのもこんな感じだったかな
ミャークニー、ナークニーはどこを探しても普通一二揚(三下)の調弦で唄われるが、今帰仁には二揚調子のミャークニーがある。それゆえにナークニーと区別してミャークニーと呼ぶ。
古老の言い伝えでは宮古の青年が歌う宮古のアヤグに感動した今帰仁の青年が持ち帰り、今帰仁の風土に合う歌詞とメロディーにしたものだという。
二つの放物線を描く唄い方はトゥバラーマ、ションカネ、スンカニ、トーガニアヤグなどとよく似ている。
多様な歌い出し、節回し
私が初めて二揚ミャークニーを聴いたのは平良正男さんからだった。お会いした8年前は、もう90歳を過ぎられていて三線を手にされることはなかった。けれども生ウタはたくさん聴かせていただいた。多くのテープも。
「歌い出しには大きく分けると三つある。
下ぎ出(ん)じゃし、中出じゃし、上ぎ出じゃし」
これはまた後に述べよう。
「ナークニーの源流は今帰仁ミャークニー」と言い切ったのは仲宗根幸市さん。庶民のモーアシビや生活に根ざした無数の琉歌、メロディー、独特な歌い出しの三種類(下んじゃし、中んじゃし、上んじゃし)などを見ると有名な唄者達が世に出る前のミャークニーの姿が見えてくる。
三つのミャークニー。
それぞれの魅力を知ってもらいたい。
一言で言えば
今帰仁だけの音色、二揚ミャークニーだ。
宮里政正さん(85)の二揚ミャークニー。
越地という字はここにある。
渡海に舟浮きて風待ちゅる夜や
無蔵が我ん待ゅし あねがあたら
(歌意)海に舟を浮かべて風を待つ夜は
愛する貴女が私を待つのもこんな感じだったかな
ミャークニー、ナークニーはどこを探しても普通一二揚(三下)の調弦で唄われるが、今帰仁には二揚調子のミャークニーがある。それゆえにナークニーと区別してミャークニーと呼ぶ。
古老の言い伝えでは宮古の青年が歌う宮古のアヤグに感動した今帰仁の青年が持ち帰り、今帰仁の風土に合う歌詞とメロディーにしたものだという。
二つの放物線を描く唄い方はトゥバラーマ、ションカネ、スンカニ、トーガニアヤグなどとよく似ている。
多様な歌い出し、節回し
私が初めて二揚ミャークニーを聴いたのは平良正男さんからだった。お会いした8年前は、もう90歳を過ぎられていて三線を手にされることはなかった。けれども生ウタはたくさん聴かせていただいた。多くのテープも。
「歌い出しには大きく分けると三つある。
下ぎ出(ん)じゃし、中出じゃし、上ぎ出じゃし」
これはまた後に述べよう。
「ナークニーの源流は今帰仁ミャークニー」と言い切ったのは仲宗根幸市さん。庶民のモーアシビや生活に根ざした無数の琉歌、メロディー、独特な歌い出しの三種類(下んじゃし、中んじゃし、上んじゃし)などを見ると有名な唄者達が世に出る前のミャークニーの姿が見えてくる。
三つのミャークニー。
それぞれの魅力を知ってもらいたい。
2024年04月07日
今帰仁ミャークニーの魅力 その②
魅力その② 兼次のミャークニー
今帰仁村の19ある字のうち「兼次」という集落のミャークニーを唄う玉城鎮夫さん。
兼次という字はここにある。
玉城鎮夫さんは今帰仁ミャークニーの研究、モーアシビの研究などもされた。
人の情けを表現する柔らかい節回しが情感をそそる。ケーシ(返し)も独特。
寄ゆる年戻し若くないみそり
くい戻ちみそり元の18
年取たんと思て 鏡(かがん)取てみりば
未だ年や寄らん元の18
と唄う。しみじみと唄いあげたあとは「山原汀間と」で盛り上げる。
今から39年前の1985年に今帰仁村コミュニティーセンターで開かれた大会の録音。
今帰仁村の19ある字のうち「兼次」という集落のミャークニーを唄う玉城鎮夫さん。
兼次という字はここにある。
玉城鎮夫さんは今帰仁ミャークニーの研究、モーアシビの研究などもされた。
人の情けを表現する柔らかい節回しが情感をそそる。ケーシ(返し)も独特。
寄ゆる年戻し若くないみそり
くい戻ちみそり元の18
年取たんと思て 鏡(かがん)取てみりば
未だ年や寄らん元の18
と唄う。しみじみと唄いあげたあとは「山原汀間と」で盛り上げる。
今から39年前の1985年に今帰仁村コミュニティーセンターで開かれた大会の録音。
2024年04月06日
今帰仁ミャークニーの魅力 その①
今帰仁ミャークニーの魅力とは
私は今帰仁ミャークニーを知って10年程になるが、初めて聴いたのが8年前。しかもそれが二揚という調弦のミャークニーだった。それから色々な時代の色々な調弦のミャークニーを聴いてきた。
改めて私なりに「ミャークニーの魅力」を考えてみたい。そして皆さんにもミャークニーを是非聴いて楽しんで欲しい。
これまで、沖縄本島の中南部では多くの唄者達が、それぞれの鍛えられた喉と三線の技術を用いてナークニーを奏でてきた。ここでは、その多くの方が知っていて、素晴らしいナークニーではなく「ミャークニー」の話だ。
ナークニーとミャークニー、どこが違うのだろう。
「生活と共にある」
今帰仁村には十九の字があって、それぞれに固有のミャークニーがあると言われる。
その中から特徴的なミャークニーを取り上げて、ミャークニーとは何か、感じ取ってもらいたい。
地域に固有のミャークニーがあるということは、それをまとめることは難しいが、三つのミャークニーをまずは聴いてもらいたい。
魅力その① 湧川ミャークニー
今帰仁村の湧川は、羽地内海に面した南東側にある。
1985年に今帰仁村コミュニティーセンターで開かれた大会での、湧川の仲宗根正忠さんと、山城要八さんのコンビ唄。
今帰仁ミャークニーは、プロの唄三線によるものではなく、一般の方々がモーアシビなどで唄われてきたもの。大会はその交流会のようなものだ。
次は兼次という地域のミャークニーだ。
私は今帰仁ミャークニーを知って10年程になるが、初めて聴いたのが8年前。しかもそれが二揚という調弦のミャークニーだった。それから色々な時代の色々な調弦のミャークニーを聴いてきた。
改めて私なりに「ミャークニーの魅力」を考えてみたい。そして皆さんにもミャークニーを是非聴いて楽しんで欲しい。
これまで、沖縄本島の中南部では多くの唄者達が、それぞれの鍛えられた喉と三線の技術を用いてナークニーを奏でてきた。ここでは、その多くの方が知っていて、素晴らしいナークニーではなく「ミャークニー」の話だ。
ナークニーとミャークニー、どこが違うのだろう。
「生活と共にある」
今帰仁村には十九の字があって、それぞれに固有のミャークニーがあると言われる。
その中から特徴的なミャークニーを取り上げて、ミャークニーとは何か、感じ取ってもらいたい。
地域に固有のミャークニーがあるということは、それをまとめることは難しいが、三つのミャークニーをまずは聴いてもらいたい。
魅力その① 湧川ミャークニー
今帰仁村の湧川は、羽地内海に面した南東側にある。
1985年に今帰仁村コミュニティーセンターで開かれた大会での、湧川の仲宗根正忠さんと、山城要八さんのコンビ唄。
今帰仁ミャークニーは、プロの唄三線によるものではなく、一般の方々がモーアシビなどで唄われてきたもの。大会はその交流会のようなものだ。
次は兼次という地域のミャークニーだ。
2024年04月04日
海田祭ー人々に勇気を
桜が咲き、花見を楽しみにしているが、天気が今ひとつだ。
昨日は台湾で大地震。2月にお邪魔した与那国島では、宿泊した久部良の港に津波が来る!との報道でテレビに映っていた。
沖縄は人々の混乱はあったものの被害はほとんどなく、一方で台湾、花蓮という都市は大きな被害を受けている。
台湾、と言えば亡父の正名が生まれた土地。
従姉妹も台湾生まれなのだ。
他方、祖母は山口県、祖父は秋田県生まれだから、なんとも説明がややこしいと子ども心に思っていた。
まだ台湾は未踏の地なのだが、最近岡山空港に台湾への格安航空路ができたということで、行ってみたいと思っていた。
能登地震もそうなのだが、小さな支援でも、できることをやりたい。
3月31日は海田町の「海田祭」に参加してきた。
人々に力と勇気を与える演舞、琉呉太鼓さんたちのエイサーと共演させてもらった。
琉球時代、人々は外洋に出ていき、他国と平和裡に公益することで国の栄を支えてきた。
そのための芸能を創作し鍛え上げただけでなく、「航海に出る」ことが「死ぬ」ことと紙一重だった時代に航海をする人々と残された人々を勇気づける音楽と芸能が発達した。
私は琉球から伝えられた芸能をそういう視点で見てきた。
先祖崇拝のエイサーであっても、今、生きる人々に力を与えてきたのだろう。
琉呉太鼓の皆さんと世果報会で海田祭のトリを取らせていただいて、会場の皆さんと一緒に楽しめたのではないか。
桜は未だであったが、懇親会でも盛り上がった。
久しぶりにゆっくり皆さんと話もできたような気がする。
昨日は台湾で大地震。2月にお邪魔した与那国島では、宿泊した久部良の港に津波が来る!との報道でテレビに映っていた。
沖縄は人々の混乱はあったものの被害はほとんどなく、一方で台湾、花蓮という都市は大きな被害を受けている。
台湾、と言えば亡父の正名が生まれた土地。
従姉妹も台湾生まれなのだ。
他方、祖母は山口県、祖父は秋田県生まれだから、なんとも説明がややこしいと子ども心に思っていた。
まだ台湾は未踏の地なのだが、最近岡山空港に台湾への格安航空路ができたということで、行ってみたいと思っていた。
能登地震もそうなのだが、小さな支援でも、できることをやりたい。
3月31日は海田町の「海田祭」に参加してきた。
人々に力と勇気を与える演舞、琉呉太鼓さんたちのエイサーと共演させてもらった。
琉球時代、人々は外洋に出ていき、他国と平和裡に公益することで国の栄を支えてきた。
そのための芸能を創作し鍛え上げただけでなく、「航海に出る」ことが「死ぬ」ことと紙一重だった時代に航海をする人々と残された人々を勇気づける音楽と芸能が発達した。
私は琉球から伝えられた芸能をそういう視点で見てきた。
先祖崇拝のエイサーであっても、今、生きる人々に力を与えてきたのだろう。
琉呉太鼓の皆さんと世果報会で海田祭のトリを取らせていただいて、会場の皆さんと一緒に楽しめたのではないか。
桜は未だであったが、懇親会でも盛り上がった。
久しぶりにゆっくり皆さんと話もできたような気がする。
2024年03月22日
平和への思いを紡ぐ
やがて桜も咲くはずだが、平和な日常すら送られない人々が世界には多い。
ウクライナへのロシア侵攻、イスラエルによるパレスチナ侵攻。第三次世界大戦の火種ともなりかねない戦争があちこちに。
ヒロシマから音楽で「平和」を奏でる。
「気がついたら戦争に」そうならないために。
4月14日150人以上のアーティストが広島駅の地下に集まり、数珠繋ぎ演奏。無料で、好きな時に好きなだけご観覧ください。
沖縄音楽は最後。沖縄戦とヒロシマは共通するものがあり、そうでないものがある。思いを紡ぐ道もあるはず。
▲世果報会。
▲琉呉太鼓さん
三線とエイサーの音色で繋ぎます。
ウクライナへのロシア侵攻、イスラエルによるパレスチナ侵攻。第三次世界大戦の火種ともなりかねない戦争があちこちに。
ヒロシマから音楽で「平和」を奏でる。
「気がついたら戦争に」そうならないために。
4月14日150人以上のアーティストが広島駅の地下に集まり、数珠繋ぎ演奏。無料で、好きな時に好きなだけご観覧ください。
沖縄音楽は最後。沖縄戦とヒロシマは共通するものがあり、そうでないものがある。思いを紡ぐ道もあるはず。
▲世果報会。
▲琉呉太鼓さん
三線とエイサーの音色で繋ぎます。