2024年10月15日

福山での講演・演奏会

10月13日、講演で「ふくやま文学館」を訪れた。

その際に琉球使節の話もさせてもらった。ほぼ毎回、琉球使節は鞆の浦に滞在していたことで深い関係がある。

講演は「ふくやま文学館友の会」の主催。
「島唄から学ぶ琉球・沖縄の歴史と文化」と題してお話と演奏をさせてもらった。

福山での講演・演奏会

福山での講演・演奏会

福山での講演・演奏会
ノーリーも参加しての演奏は、かぎやで風、かたみ節〜祝い節、安里屋ゆんた(新と八重山)、今帰仁ミャークニーなど。

⚫︎沖縄の人々は琉球王朝時代からのウタを大切にして今も歌っている。
⚫︎そのウタは八重山や宮古から本島に来たもの、また逆流したものがある。
⚫︎歴史の「ゆりかご」がウタを生み出し育ててきた。さらに薩摩藩による侵攻や密貿易、人頭税などの背景を無視できない。
⚫︎生活の中にウタを組み込んでいる沖縄の人々に学ぶ。

熱心な方々からの質問がいくつも飛び出した。

この講演にあわせて、ほぼ5年ぶりに小松寺へ慰霊拝礼に行ってみた。

ここには1790年の琉球使節に参加した与世山親雲上が病死して小松寺に埋葬されていた。遺骨と立派な墓は後に琉球へ。そこには石碑が置かれてある。
福山での講演・演奏会

ここには「琉球司楽向生碑」と掘られている。
しかし、当初あった墓には次のように掘られている。

(表)「琉球/向氏与世山親雲上/法号/幽岸曹源禅定門之墓」

(裏)「与世山親雲上姓向名道亨/是琉球中山王使者宜野湾王子赴江戸之時為楽師随行/至備轄下鞆港而病故/時寛政二年庚戌十月十三日/翌日葬于小松寺宅/琉球国同僚泣血拝志」


小松寺の本堂には大きな扁額が掲げられている。
福山での講演・演奏会
右側には「寛政丙辰譜久山親方朝紀為」
中央には「容顔如見」
左端には「亡孫幽岸曾源寄立」

譜久山親方朝紀は、琉球の三司官の一人で1778年から1798年にかけて20年間勤めている。
その孫の向生が亡くなったのは1790年だから祖父は三司官の時に孫の死に直面したことになる。さぞかし琉球使節に加わり鞆の浦に来たかったことだろう。

次の琉球使節にこの扁額を託したということなので、6年後の1796年の琉球使節(尚温の就任に際しての謝恩使。大宜見王子朝規が正使)のことである。

そして時は経ち、琉球王朝は明治政府により「処分」され沖縄県となる。石碑の前には木製の説明文がある。

明治三十年二月廾八(二十八)日 故葬(?)
曽孫善平朝昌 森山朝頼墓参

明治三十年、1897年、曽孫の二人が訪れて改めて葬儀を行なっている。おそらくその時に墓と遺骨は沖縄へ。

最初に福山藩によって建てられた墓の記録が江戸時代の本に掲載されている。非常に立派は墓石だったことがわかる。
福山での講演・演奏会

この墓石が沖縄のどこにあるのか、いつか調べてみたいものだ。

いずれにせよ日琉の交流を大切にしていた人々もいたことは看過できない。

福山での講演・演奏会
いつものように石碑の前で「かぎやで風」を弾いてきた。


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