今帰仁ミャークニー大会を前に

たるー2

2024年08月26日 07:15

今帰仁まつりのフライヤーが公開された。



今帰仁ミャークニー大会は、8月31日16時10分から。今週となった。



なんと18年ぶりの開催となる。

昔の大会とは色々と様変わりしているかもしれないが、開催することがまず大事。そして継続することが。

皆さん、是非聴きに来てほしい!

たるーも唄います。

今帰仁ミャークニーの歴史を探る旅

私が今帰仁ミャークニーと出会った経緯を少しまとめてみた。もう10年近く昔の話になる。


宮古島から那覇はおもろまちへ。
そこに「タカマサイ公園」がある。



今はおもろまちと呼ばれているが、ここは泊の港の上にあった火の見やぐらがあった高台だった。
今から600年ほど前の事、宮古島から與那覇勢頭豊見親という首領が当時の中山王察度に朝貢した。その首領の従者だったタカマサイという青年が毎晩この高台に登って故郷の方向を見ながらあやぐを唄ったという伝説に基づいて作られた公園。タカマサイがそこに立って唄ったという石もある。

今帰仁村には、このタカマサイのウタを聴いた青年が今帰仁に戻ってミャークニーが生まれた、という伝説がある。

しかしミャークニーは定型区の琉歌。8886文字で作られている。まだ当時は琉歌は生まれていない。

ウタの伝搬は点から点ではなく、波のように何度も伝わって面から面のように広がるという説がある。第二、第三、いや何度も何度も宮古島から伝わって来たのかもしれない。

また宮古島には船を製造する材木がない。その材木をもとめて北部、ヤンバルに宮古島からの船が訪れていた事実もある。直接、ヤンバルに宮古のウタが伝搬したとも考えられる。
いずれにしてもタカマサイ公園は貴重な歴史を物語る。

そして9年前の話。宮古島の旅から、那覇のタカマサイ公園、そしていよいよヤンバル本部への旅から今帰仁ミャークニーとの出会いに繋がっていく。

なんというラッキーな、そして贅沢な旅をしてきたかと改めて感謝している。

その本部では、元教育長をされていた根路銘氏に「本部ミャークニー散策道」を案内していただいた。

そして本部ミャークニーの元ウタについても教えて頂いた。さらに今帰仁村歴史文化センター元館長からもフィールドワークによりスクミチの散策、本部ミャークニーのポイント地点の確認など、多くの教えを頂いた。

さて今帰仁ミャークニーとの出会いは、この数年後となる。

今帰仁ミャークニーとの出会い

宮古島への旅に始まり、タカマサイ公園を経て本部ミャークニーの源流を探っている時に、私はあちこちの方に今帰仁ミャークニーの唄者をご存知ないか、と尋ねていた。

しかしすぐに見つからず、1年後今帰仁村文化協会の方から情報が届いた。すぐに今帰仁村へ。平良正男さん、平良哲男さんとの出会いだった。2016年、8年前だった。



平良正男さんはお祖母様のミャークニーを継承されていた。三線は二揚調子だったことに驚いた。ナークニー、ミャークニーは基本三下調子であり、二揚は普久原朝喜さんら数名がレコーディングしたのみ。

ご長男の平良哲男さんと「二人三脚」でこの二揚ミャークニーを採譜し研究し普及にも勤めた。だがお二人ともすでに他界された。哲男さんが残されたものは私がお預かりしている。二揚のミャークニーが盛んに唄われた時期があったこと、これだけは後世に残しておかねばならない。「今帰仁ミャークニーは今日のナークニーの源流」であるとの仲宗根幸市さんの言葉の重みも消してはならない。

今帰仁ミャークニーと出会って、とんとん拍子に話が進んで「ミャークニー大会」を開くことになった、というわけではない。
難しいことは山ほどあった。いやこれからもあるだろう。

今帰仁ミャークニーを残す難しさ

今帰仁ミャークニーが宮古から来たウタの影響があるということには異論もある。

ある一時期本島にも宮古島にも同じような音階(琉球音階)の曲が広がっていた、流行っていたという説がある。トーガニアヤグなどは600年の歴史があると言われるがその頃のことである。つまり点から点に「宮古島から今帰仁へ」ではなく、広い面に同じような曲が面のように存在していたという説。

これは検討に値する説で、八重山や与那国にもなぜ琉球音階の曲が生まれたのかという説にも関わるからである。

ところがそれ以前に「宮古からウタの影響を受けるはずがない」という「上から目線」的なご意見を賜ることがある。また「二揚の今帰仁ミャークニーはどことなく沖縄らしさがない」というご意見も賜った。「ウチナーカバ(香り)がしない」とはっきりと仰る方もいた。

出会いを宝に

それでも私が今帰仁ミャークニーにこだわることができたのは亡くなられた平良哲男さん、平良正男さんたちの熱意があったからである。特に哲男さんとは3年以上メールや今帰仁のフィールドワークなどにお付き合いいただき、ご一緒に今帰仁ミャークニー研究をさせていただいた。

何を言われても私の確信が揺らがないのは、今も多くの方々が今帰仁ミャークニーを愛し、大会を開こうと努力されているからである。そのきっかけを作ってくださった哲男さんのご遺志を受け継ぐ覚悟である。

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