八重山を巡る旅
5月6日石垣市のタウンパルやまださんで行われる「トーク&サイン会 ミニライブ付き」のポスターを作ってくださって店頭に貼ってあるそうだ。
嬉しい限りです!
今回の石垣の旅は「どっぷり八重山民謡」と言いたいか、八重山民謡と本島などの古典、民謡との関係に強い興味がある。
これまでも書いて来たが、本島民謡「恋の花」と八重山民謡「くいぬぱな節」、古典曲の「高祢久節」は深い関係があるといわれている。
また、本島民謡、古典の「遊びションガネー」と八重山「前ぬ渡節」、同様に「サーサー節」と「世果報節」もそうだ。
ご周知のようにこの「くいぬぱな節」「前ぬ渡節」「世果報節」は八重山民謡だが新城島(あらぐすくじま)に生まれたウタだ。
この三曲は曲に使われる音階が琉球音階(の変形)であることがとても面白い。
何故、この島に?という疑問があると同時に、琉球音階や律音階、それぞれの変形を見る時に、一体これらはどこから来て、どのように広がり、また消えたり変化して来たのか、という興味も湧いてくる。
今帰仁ミャークニーのように、宮古民謡との関わりか推測されるが、もしトーガニアヤグなどが関係しているとすれば、どちらも琉球音階である。
15世紀に琉球王朝が統一され、さらに17世紀には薩摩藩による侵攻、そして人頭税が行われる時代になって、モノと人の移動が盛んに行われるようになった。
新城島では水田ができないためにジュゴンの捕獲ー献上が命じられた。管理する首里からの役人は頻繁に行き来したに違いない。
18世紀屋嘉比朝寄は、あの有名な工工四に「高祢久節」を記録した。
どこから、どのように?
それは知る由もないのだが、首里にまで届いていたことは間違いなく、またそれを記録したということは、その時期に「流行」していたと見ることはできないだろうか。
湛水親方の古典音楽にしても、遊郭で遊女たちが三線を使って琉球文化を残していたものを参考にしたということは知られている。
そう考えると、人とモノが薩摩から奄美、琉球、そして先島へと多く流通していた時代、ウタもまた船に乗って港から港、人から人、また遊里から遊里へ、シマからシマへと自由に移動していたのではないか、私たちが想像する以上に。
そんなことを思いながら、旅の計画を立てている。
タウンパルやまださんでも、5月8日の三線カフェさんでも、そんなお話もさせてもらえたら、と思う。
ありがたいことに5月8日は完売となった。
感謝します。
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