昨夜は2019年最後の満月。
オリオン座もくっきりと見える夜空に浮かんだ満月。
昨日は横川三線教室で、トゥバラーマ、今帰仁ミャークニーを練習。
トゥバラーマも今帰仁ミャークニーも、満月の夜には欠かせないウタだ。若者たちが野外に集まるモーアシビは月夜の晩に行われた。月とウタは切り離せない。
「ハイサイ!ウチナータイム!」の「たるーの島唄コラム」で「月」を取り上げたことがある。
良かったらお読みいただきたい。
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第24回 「シマウタと月」 3月
たるーは何よりも「ちち」が好きだ、なんて書くと別の意味にとる人がいる。「ちち」とは、乳でも父でもない「月」のことだ。
沖縄では少し前まで月を「ちち」と言った。ウタにも多い。今回は月が詠まれたウタを見てみよう。
月の夜になれば我身忍でいもり 闇の夜になれば御主忍ば
(訳)月が照らす夜になれば私に会いに来てください。闇の夜になったら私があなたのところに参ります
舞踊曲「汀間と」に使われる「月の夜節」に出てくる歌詞。
月が照らす夜と真っ暗な闇の夜とでは二人の逢瀬の方法を変えようね、という女性からの提案だ。なかなか大胆なセリフかもしれない。
月夜は人目につくわ。あなたがくるのは構わないけど闇の夜になったら人目につかないから私が行くわ、と。しかし今や不夜城のように24時間明るい街中では、こんな会話は生まれまい。
渡海や隔じゃみても 照る月やひとつ あまも眺みゆら 今日ぬ空や
沖縄ではとても愛されている舞踊「浜千鳥」の一節。
海で離れて暮らしているが、照らしている月は一つしかない。その同じ月をあの人も眺めているのだろう 今日の空は。というような意味になる。
今この時間にも、同じ月をあの人も見ているのだろうか、と考えると寂しさも薄れる。浜千鳥は家族や恋人から離れて暮らす人々を癒すウタだ。
八重山の有名なウタに「月ぬ美しゃ」がある。しかし八重山地方では「月」を「ちち」と言わない。「つぃくぃ」(口を丸めないで横に広げたまま舌を引っ込めて「つく」と言うと似ている)と発音する。難しいよね。
月ぬ美しゃ十日三日 女童美しゃ十七つ
月が美しいのは十三夜の月。娘が美しいのは十七歳。
十五夜の月のように明るく満ちた月より少し前の未熟さが残る方が月も人も美しいという。満ちたものは枯れていくしかない。八重山の人々の鋭い美的感性が込められている。
「月」が出てくるシマウタは無数にある。もちろん月自体も美しいし、寂しい時の慰めにもなる。そしてさらに月は人の歌心を刺激するのかもしれない。
ところでなぜ「月」を「ちち」と発音するのだろう。難しい説明は抜きにして短く説明すれば、言葉は歴史とともに変わっている。
研究者によれば
8世紀の沖縄では月を「とぅきぃ」と発音し、15世紀「つきぃ」、16世紀「つぃき」、18世紀「つぃつぃ」となって19世紀頃に「ちち」と言うようになったという。
琉球と中国との交易に使われた辞書などを研究した結果だ。
本土でも8世紀月を「とぅきぃ」と言った。知れば知るほど面白い言葉の歴史のロマンがある。
ちなみに沖縄語で「父」は「すー」、「乳」は「ちー」と呼ぶのでご安心下さい。
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