ウタマーイ歌碑マーイ3
沖縄二日目に伊計島まで行ってきた話を前回書いた。その続き。
犬名河(インナガー)から北上して伊計島のリゾートアイランドまで久しぶりに行ったのだが、風が強くてとても寒い。
レンタカー内も寒いので思わず暖房にした。
ホテルの前の
足湯が沖縄では珍しいし、入ってみたくなるほどだった。
昨日からこのイソヒヨドリとよく出会う。
愛機のカメラ、ニコン・クールピクスが威力を発揮する。望遠が得意で、しかも鳥や月を撮影するのに特化したカメラだ。
このオスの色がなんとも渋くて良い。好きだ。
さて海中道路を戻る時に空腹感を覚えて、店を探していたら車が多い店に出会う。こんな店は美味いことが多い。
身体も冷えていたので久しぶりに骨汁を食す。
沖縄そばの出汁をとった豚の骨なんだが、その出汁は程よい塩味にしてあって、お肉もすこし残っていたりする。レタスがほぼひと玉入ってるのではないかと思うほどドンと乗っている。ご飯がついて550円。スープのコクがたまらなくて夢中になっていた。
かね食堂、ここは要チェックだ。
食べ物の話題にとどまるわけにいかない。
この日は自分でも驚く出会いがあったのだ。
林次先生にもお願いして教えていただいている知名定繁氏の
「門たんかー」の歌碑へ。もう何度も訪れているが、毎回気持ちが引き締まる思いなのだ。
先生もこのウタの質やレベルの高さは絶賛される。
古典を知り尽くした定繁氏が、民謡のナークニーに「対峙」する曲を作り出すならこういう難しい節回しになるだろうとのことだった。
今回のお稽古でもその節回しには苦しんだ。
とにかく定繁氏のこの歌碑にはお参りに来た。三線はないが歌った。
さあ、帰ろう。
と、その時にふと思った。
どこのモーアシビだったんだろうか。
いつものようにグーグルマップやSafariでしらべてみる。
「大田バンタモーアシビ」
「大田坂かゆてぃ」
こんな歌詞から想像できるのは「大田」という地名なのだが、それならこのうるま市にある。しかも勝連半島の近くに。
大田公民館
そこを目指す。
具志川運動公園の南側にあって、民家の中にあった。
普通の公民館なのだが、裏側にすこし高台がある。
私の、普段は働かない「勘」が働いた。
「モーアシビは高台だ。だからここじゃない」と。
沖縄のある民俗学者から「公民館や郵便局、学校のある場所は旧跡が多い。なぜなら人が住む場所ではなかったから」と教えていただいたことがある。場所がわからなければそうした場所に行くと良い、と。
レンタカーを動かして、公民館の上の高台に向かう。すると、見えてきた。
知名定繁氏が作った「門たんかー」の歌詞の後半に
サー太田ばんた毛遊び唄声小や 田佐原チル小 三味線小弾ちゅせよがりうさ小
さー大田坂通て 為なたみアバ小よ 足駄鼻切らち 損どぅなたんで
意味は
太田の高台(崖の上)でのモーアシビ、そこで聞こえる歌声は田佐原のチルちゃん、三線を弾くのは痩せたウサちゃん。
大田坂を通って何か為になったかい?姉さんよ。下駄の緒(お)が切れたくらいで損したくらいだってさ
「太田坂」(ウフタビラ)と、発音まで書かれた看板と出会った。
その看板の左側に急な坂道がある。そこが「大田坂」なのだろう。すこし下ってみる。
流石に一人で下まで下る勇気がない(笑)トラブルは避けたいと途中で引き返した。
看板を見てみよう。
うるま市指定文化財第34号「史跡」
指定年月日:2005年(平成17年) 2月16日
Uruma City appointed cultural asset #34 "historic site" Date of appointment: February 16, 2005.
" URUMA市指定文化財「史蹟」指定日期: 2005年2月16日
우루마시 지정 문화재 제34호·사적, 지정년월일 2005년 2월 16일
字大田と字川田を通る坂道は、今から約200年ほど前にあかばんた掟(うっち)と玉城親雲上(たまぐすくペーチン)と上門小(いーじょうぐゎー)ビニーの三人の企画と設計で施工され、地元や近隣の住民や資材の協力を得て完成したと伝えられています。
幅員2~3mで、全長約300mにおよび、琉球石灰岩(りゅうきゅうせっかいがん)を敷き詰めた石畳(いしだたみ)の道で、坂を登ると眺めの良い大田バンタがあります。また、字具志川に番所があった頃首里王府から各間切間の伝達に利用された道で宿道として整備された歴史の道であります。
ここの右側に小さな高台があり、草薮になっていたので中には入らなかったが、そこから海が見渡せる場所がある。この看板によればそこが
「大田バンタ」なのだ。
「大田バンタ」「大田坂」両方と偶然に出会えたことになる。
そしてもう一つの歌碑との出会いがあった。しかもこれも偶然の出会いで。
(つづく)
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