2024年11月30日

鞆の浦、琉球使節への誤解



先日図書館で見つけたこの本。
鞆の浦での琉球使節の話を少し取り上げている。

そこには、向道亨の死後6年後に埋葬の返礼に送られた扁額の話が語られている。



この扁額は向道亨の祖父朝紀が書いて、1796年の琉球使節に託したものだ。

ただし、その明確な記録はない。

扁額には「まるで向道亨の顔を見ているようだ」との意味の言葉「容顔如見」という文字が、立派な扁額に彫られている。

「まるで顔を見ているようだ」と書いているということは、これを書いた祖父は墓があった小松寺に来て書いたのでは、と思う方がいる。

「歴史散歩 鞆の浦今昔」(山陽新聞社)を見ると

そして、六年後の寛政八年。再び琉球使節が鞆を訪れた。甲板で町並みを見詰めていた二人は、向生の祖父朝紀と父朝郁だった。「せめて墓参りだけでも」と使節に参加したのだ。小松寺を訪れた二人は、墓の前で向生の名を幾度も呼びながら、泣き崩れた。

ようやく気を取り直した二人は、福山藩と寺の心温まる対応に感謝し、「まるで向生の容貌、顔色、その身を傍らに見るようだ」という意味の「容顔如見」の扁額を小松寺に寄進。向生に永遠の別れを告げた。


と書かれている。

が、祖父朝紀はその当時、三司官(現在の総理大臣にあたる)だった。琉球使節に参加すれば、約1年ほど費やすわけだから、王朝の運営に責任を持つ三司官であったはずはない。

父と祖父は1976年の琉球使節に「託した」のである。

  

Posted by たるー2 at 09:24Comments(0)琉球使節

2024年11月23日

桜坂市民大学 次回は琉球使節と上り口説



次回(11月27日)桜坂市民大学 「たるーの民謡深掘り講座シリーズ」は

「琉球使節と上り口説」

琉球使節とは何なのか。
口説とは?
琉球使節は本土で何をし、何を吸収してきたのか。
琉球文化における琉球使節の役割。

そして、広島における琉球使節の足跡の最新情報も。

お申し込みは
桜坂市民大学
https://manabiya.sakura-zaka.com/?p=30697
まで。

  

2024年11月21日

誇り



県内産レモンが安くなったので、たくさん購入。

柚子胡椒も作るのだが、レモン胡椒を作ってみた。

皮を剥いて、白いところは少なめだが残す。ほんのり苦味を楽しみたい。あとは唐辛子と塩。




フードプロセッサーを使うから簡単。


昨日の関 洋水曜教室。

京都に帰省したメンバーが買ってきたお守り。
来月、琉球民謡協会の教師試験に挑戦する二人のメンバーがいる。そのメンバーに。

車折神社には芸能神社があるのだそうな。

こういう仲間を思いやる気持ちは嬉しい。誇りたい。


残念ながら「私、私」という人間がいる。
ウチナーグチでは「わんから、わんから」という、そんな人間は嫌われる。

私もそんな人間には嫌悪を抱く。


先日の望年会でも、仲間への配慮や気遣いがあちこちでみられた。とても心休まる集まりだったことを誇りに思う。  

2024年11月19日

次の沖縄旅 三つの宿題

12月13日から訪沖する。


生徒が二人、琉球民謡協会の教師試験を受験するので「引率」が目的。(写真は昨年ノーリーが受験する前のもの)

来年3月2日に行う「映画「GAMA 月桃の花」&海勢頭豊ミニライブ」のための打ち合わせを海勢頭豊さんたちと行う。


そして、琉球使節が残した足跡の一つ、広島県福山市鞆の浦の小松寺にあった司楽向生さんのお墓がどうなったのかを今調べている。


(小松寺の司楽向道亨の墓があったと示す石碑)

そのお墓を御子孫が明治30年に沖縄に持ち帰られたという情報に基づいて、那覇市歴史博物館と連携して調べていただいている。

もしかしたら、御子孫の方がその墓のある場所をご存知かもしれない。

もう一つの足跡、広島県倉橋町の鹿老渡(かろと)という島で1842年(天保13年)に琉球人が亡くなって葬儀をしたとの記録が見つかった。

その墓が過去帳には「カントワラ」にあるとされていることがわかったが、その場所が見当たらない。

沖縄県知事玉城デニーさんとお会いした2022年、過去帳を実際に見ることができない私は沖縄県が公的機関の調査として、この過去帳を調べて欲しいと要望したら、県知事は快く了承してくださった。

その話も沖縄県庁を訪れて、改めてお願いしようと思う。

「墓探し」を二つも抱えている。まるで映画トゥームレイダーか、インディージョーンズか(笑)

先日、同じように鞆の浦の琉球使節向道亨さんのお墓に関心をもつ方とお会いした。


福山大学の中嶋健明先生だ。映像分野から、琉球使節に興味を持たれているという。

今後、是非連携をさせていただきながら、琉球使節の足跡ー瀬戸内海でのーを明らかにしていけたらと思う。

三つも宿題を抱えた欲張りな沖縄の旅になりそうだ。





  

2024年11月18日

来年へ〜世果報会の望年会

昨日は世果報会の望年会。

普通は忘年会とするところだが、「歌を忘れる」そんなことが嫌だし、「年を忘れる」ことより「来年に希望を持つ」そんな方が良いと思い「望年会」と名付けた。



横川の酒場モンキーさんを貸切で36名が集まった。



「プチ民謡•ポップス大賞」もイベントの一つ。

全部で17団体個人がエントリーした。









中にはサックス演奏や、ギターのソロも。



変装?したメンバーも(笑)


親子で参加したメンバー。
歌詞を作り替えてオリジナルソングにしているところも素晴らしい


今帰仁ミャークニー•カイサレーを独唱してくれたメンバー。
まだ弾き始めたばかりでこれからなんだが、今帰仁ミャークニーが広島にもこれから広がっていくことを願っているものとしては、嬉しかった。



全部載せられないが、皆さんが自然に踊って楽しんでいる姿に、1年間をしみじみと振り返ることができた。

昨年の20周年発表会、コンクール、そして望年会、多くのメンバーと沖縄の文化を学び楽しむことの素晴らしさ。そして、まだまだ勉強不足であることも忘れるわけにはいかない。

まだまだ今年はやらなければならないことがある。

12月は琉球民謡協会の教師試験に2名が挑戦する。これからもしっかり勉強と稽古を積もう。  

2024年11月13日

良いこと連鎖

ひとつ念を込めた仕事をすると二つ良いことが返ってくることがある。

私は勝手に「良いこと連鎖」と呼んでいる。


▲8月31日の今帰仁ミャークニー大会

今帰仁ミャークニー大会から2か月も経った昨日のことである。

生徒の一人が今帰仁ミャークニーを独唱してくれた。ハマっているのだという。

ぎこちないところもあるけれど私のウタを学んでくれている。


今帰仁ミャークニーが今帰仁だけでなく、あちこちに広がることを願っていた私には先日の大会が実現したのと比べても良いくらいの嬉しさがあった。


思わず亡くなった平良正男さん、哲男さんにご報告したい気持ちになった。「大会で歌われている皆さんのミャークニーを聴いていると涙がでそうになる。歌いたくなった」とその生徒は言う。

良いこと連鎖はまた良いことを生んでくれそうだ。  

Posted by たるー2 at 22:59Comments(0)島唄今帰仁ミャークニー

2024年11月08日

来年はまとめられるか?



広島県と琉球使節。

現在、那覇市歴史博物館の方が1790年の琉球使節の楽師与世山親雲上の墓がどうなったのか、を調べてくださっている。

そして先程は、鞆の浦歴史民俗資料館の方からわざわざお電話があった。墓は「明治30年に子孫2名が持ち帰った」という資料はあるが、それ以上は調べていない、とのことだった。

で、私も鹿老渡での1842年の琉球人葬儀の件をお伝えしておいた。鞆の浦と鹿老渡、繋がりはある。琉球使節の航路としては近い。

すると福山大学のある教授が、与世山親雲上の墓について興味を持たれているとの話を伺った。

早速、連絡をしてみる。返信はまだ無い。


来年あたりはこうして調べて来たことを一旦まとめることになるだろう。

12月は沖縄県にも連絡をさせてもらおう。鹿老渡の過去帳の調査をしてもらいたいのだ。

  

Posted by たるー2 at 11:15Comments(0)島唄琉球使節

2024年10月28日

祝500万PV

たるーの島唄まじめな研究


▲ブログ「たるーの島唄まじめな研究」のPV(ページを開いた数)が500万回を超えた。
人口に例えるとモーリタニアの人口数😊

本が出版されても、このブログは継続している。本は本で、ブログにはない視点からの項目が多々ある。島唄語句辞典、島唄マンガ、島唄人名辞典、年表、参考音源など。ブログをもう一度見直し、嘉手苅林次先生の監修の下精査して本になっている。

それでもブログはブログで活用してくださる方が少なくないことを示してるんだな。感謝してます。


▲このブログを始めたのは2005年。
来年で20年を迎える。

大きな辞書をカバンに詰めて職場への通勤電車の中でコツコツ沖縄民謡を訳してきた。

隣の女子高生が、携帯に打ち込む速さに驚いていたのが懐かしい。おじさんだってフリック上手なのだよ(笑)このブログは携帯(ガラケーと呼ばれる)に打ち込んで作ってきた。

インターネットが今ほどになるとは思わなかったが、「ネット」を通じて多くの人と繋がることで、素晴らしい沖縄民謡の魅力を伝えられると思った。またわからないことへの先輩の皆さんからのご意見を多くいただいた。

ネットは今や犯罪にも使われたり、世論誘導にも簡単に使われる時代になったが「真面目に」使っている人々もいることは忘れたくない。

これからもコツコツとこの仕事を続けていく。
それが自分の道なのだから。  

2024年10月21日

「けんみん文化祭ひろしま」でヨーテー節を

毎年、広島県が主催する「けんみん文化祭ひろしま」、その中に「民謡•民舞の祭典」という部門がある。

今年までは永良部百合の花の唄三線、踊りで参加させていただき、二回(二年)優秀賞を頂いた。

来年は「ヨーテー節、カイサレー」で参加することになった。



ヨーテー節と言われてもピンとこない方も多いだろう。「西武門節」(にしんじょーぶし)と言えば、あー知ってるという方は多いはず。

西武門節は、川田松夫(1903~1981)氏が「西武門哀歌」と名付けた芝居の挿入歌として作られたもの。曲への人気が高く、曲自体が「西武門節」と呼ばれるようになった。

曲は「ヨーテー節)で、屋我地島、羽地内海周辺の今帰仁村湧川などで盛んに伝われてきた民謡だ。

今帰仁ミャークニーとの関係も歌詞が共通していたりする点は注目したい。


▲左側が今帰仁村、ワルミ大橋(中央)で右側の屋我地島と繋がっている。中央は羽地内海という比較的に浅く、多島美という意味では瀬戸内海によく似ている。
この内海では昔から塩田での塩作りが行われたりしていた。

屋我地島からは薪を取りに若い女性たちが海を渡って湧川の山に入っていたという。

また羽地内海には米の集積•積出の港があり、勘手納(かんてぃな はんてぃな)と呼ばれる港が古くからあって、多くの人夫が各地から集められていたこともあり、屋我地島に渡ってモーアシビが繰り広げられた所でもある。

昔ばんしんか勘定納に下りて(ヨー)
天馬打ち出じゃち屋我地渡ら (ヨーテー ジントー)屋我地渡ら

(歌意)昔からの仲間たちよ 勘手納に降りて天馬舟に乗って屋我地島へ渡ろう

ヨーテー節の一節である。
つまりヨーテー節は、そのような中で育てられた民謡だった。



音に響まりる平松ぬ下や 毎夜若者ぬ 遊びどぅくる
(歌意)有名な平松の下は毎晩若者の遊ぶ場所だった



屋我地島には我部(がぶ)と呼ばれる集落があり、そこに生えている琉球松の下はモーアシビが盛んに行われたという。そのことを詠っている。



湧川ヨーテー節と呼ばれる歌詞の数々。


ヨーテー節を残していきたいと「ヨーテー節交流会」を開いた方もいる。

今年の8月までは今帰仁ミャークニーで頭が一杯だったが、この北部の民謡の豊かさを示す他の民謡、ヨーテー節などにも目を向けていきたい。


  

Posted by たるー2 at 10:01Comments(0)島唄けんみん文化祭

2024年10月15日

福山での講演・演奏会

10月13日、講演で「ふくやま文学館」を訪れた。

その際に琉球使節の話もさせてもらった。ほぼ毎回、琉球使節は鞆の浦に滞在していたことで深い関係がある。

講演は「ふくやま文学館友の会」の主催。
「島唄から学ぶ琉球・沖縄の歴史と文化」と題してお話と演奏をさせてもらった。






ノーリーも参加しての演奏は、かぎやで風、かたみ節〜祝い節、安里屋ゆんた(新と八重山)、今帰仁ミャークニーなど。

⚫︎沖縄の人々は琉球王朝時代からのウタを大切にして今も歌っている。
⚫︎そのウタは八重山や宮古から本島に来たもの、また逆流したものがある。
⚫︎歴史の「ゆりかご」がウタを生み出し育ててきた。さらに薩摩藩による侵攻や密貿易、人頭税などの背景を無視できない。
⚫︎生活の中にウタを組み込んでいる沖縄の人々に学ぶ。

熱心な方々からの質問がいくつも飛び出した。

この講演にあわせて、ほぼ5年ぶりに小松寺へ慰霊拝礼に行ってみた。

ここには1790年の琉球使節に参加した与世山親雲上が病死して小松寺に埋葬されていた。遺骨と立派な墓は後に琉球へ。そこには石碑が置かれてある。


ここには「琉球司楽向生碑」と掘られている。
しかし、当初あった墓には次のように掘られている。

(表)「琉球/向氏与世山親雲上/法号/幽岸曹源禅定門之墓」

(裏)「与世山親雲上姓向名道亨/是琉球中山王使者宜野湾王子赴江戸之時為楽師随行/至備轄下鞆港而病故/時寛政二年庚戌十月十三日/翌日葬于小松寺宅/琉球国同僚泣血拝志」


小松寺の本堂には大きな扁額が掲げられている。

右側には「寛政丙辰譜久山親方朝紀為」
中央には「容顔如見」
左端には「亡孫幽岸曾源寄立」

譜久山親方朝紀は、琉球の三司官の一人で1778年から1798年にかけて20年間勤めている。
その孫の向生が亡くなったのは1790年だから祖父は三司官の時に孫の死に直面したことになる。さぞかし琉球使節に加わり鞆の浦に来たかったことだろう。

次の琉球使節にこの扁額を託したということなので、6年後の1796年の琉球使節(尚温の就任に際しての謝恩使。大宜見王子朝規が正使)のことである。

そして時は経ち、琉球王朝は明治政府により「処分」され沖縄県となる。石碑の前には木製の説明文がある。

明治三十年二月廾八(二十八)日 故葬(?)
曽孫善平朝昌 森山朝頼墓参

明治三十年、1897年、曽孫の二人が訪れて改めて葬儀を行なっている。おそらくその時に墓と遺骨は沖縄へ。

最初に福山藩によって建てられた墓の記録が江戸時代の本に掲載されている。非常に立派は墓石だったことがわかる。


この墓石が沖縄のどこにあるのか、いつか調べてみたいものだ。

いずれにせよ日琉の交流を大切にしていた人々もいたことは看過できない。


いつものように石碑の前で「かぎやで風」を弾いてきた。  

Posted by たるー2 at 11:10Comments(0)イベント琉球使節沖縄文化